17日には上屋敷、18日には赤坂下屋敷、22日には本所下屋敷がそれぞれ、幕府に収公された

この収公に先立ち、町人や浪人の中で其々の藩邸に忍び込んで空巣をやる者や、堂々と押し入って暴れる者がおり、大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている

堀部武庸も暴徒の退治に加わり、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』)

事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が赤穂藩へと飛んだ

 

第一報は、14日未の下刻(午後3時半ごろ)に早水藤左衛門と萱野三平が早駕籠に乗って江戸を出発し、19日寅の下刻(午前5時半ごろ)に赤穂に到着した

この時点では、刃傷沙汰のみが伝えられた

次いで14日夜更けに江戸を発した第二の早駕籠(原惣右衛門と大石瀬左衛門)が19日の内に赤穂に到着し、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の改易を伝えた

江戸・赤穂間の早籠は通常7日程度かかるが、この時は昼夜連続で駆け続け、4日半程度で赤穂に着いている

一方、吉良上野介の生死が赤穂側に伝わったのは3月下旬であった

筆頭家老の大石内蔵助は、第一報が届いた時点で藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた

そして大石を上座に据え、連日、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)

幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、赤穂藩士は内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである

一方で親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた

※ウイキペディア参照