歴代の赤穂藩主時代の家中において発生した事件との混同を避けるため、池田家において藩主池田輝興が狂乱し正室などを殺した「正保赤穂事件」、森家において攘夷派が藩政を私物化した家老の森主税を暗殺するという「文久赤穂事件」と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる

『仮名手本忠臣蔵』以降、忠臣蔵と呼ぶことが多い。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ

事件当時、江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所柄もわきまえずに刃傷におよんだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は大激怒、浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上改易されたが、吉良に咎めはなかった

そのため浅野のみ刑に処せられた事に家臣達は反発、筆頭家老である大石内蔵助を中心に対応を協議した

反発の意思を見せるため、籠城や切腹も検討されたが、まずは幕府の申しつけに従い、素直に赤穂城を明け渡す事にした

この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学を中心とした浅野家再興の道も残されており、籠城は得策でないと判断されたのである

一方、同じ赤穂藩でも江戸に詰めている家臣には強硬派(江戸急進派)がおり、吉良を討ち取る事に強くこだわっていた

彼らは吉良邸に討ち入ろうと試みたものの、吉良邸の警戒が厳しく、彼らだけでは吉良を打ち取るのは難しかった

そこで彼らは赤穂へ行き大石内蔵助に籠城を説いたが、大石はこれに賛同せず、赤穂城は予定通り幕府に明け渡された

吉良を打ち取ろうとする江戸急進派の動きが幕府に知られるとお家再興に支障が出てしまうので、主家再興を目標とする大石内蔵助は、江戸急進派の暴発を抑えるために彼らと二度の会議を開いている

しかし浅野内匠頭の弟である浅野大学の閉門が決まり、播州浅野家再興の道が事実上閉ざされると、大石内蔵助や江戸急進派をはじめとした旧浅野家家臣(以降赤穂浪士と記述)達は京都の円山で会議(円山会議)を開き、大石内蔵助は吉良邸に討ち入る事を正式に表明した

そして仇討ちの意思を同志に確認するため、討ち入りを取り止めると偽った上で事前に作成していた血判を同志達に返してまわり、血判の受け取りを拒否して仇討ちの意思を口にしたものだけを仇討ちのメンバーとして認めた

※ウィキペディア参照