大石神社本殿

研修中の巫女さん

忠臣蔵・山鹿流陣太鼓

合祀社は7社

そのうちの一つが山鹿神社で、山鹿流兵学の創始者で47士に大きな影響を与えた

風さそう花よりも なほわれはまた 

春の名残をいかにとかせむ

昇龍

忠臣蔵は、 人形浄瑠璃(文楽)および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称

脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分もあり、事実関係を追ってみよう

元禄14年3月14日、江戸城殿中松の大廊下で赤穂藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家肝煎・吉良義央(上野介)に刃傷に及んだことに端を発する

この一件で加害者とされた浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなった

その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石氏良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名、いわゆる「赤穂四十七士」(あこうしじゅうしちし)は、紆余曲折のすえ元禄15年12月14日未明に本所・吉良邸への討ち入った

竹林隆重が吉良を討ち取り、間光興が首をはねた。そしてその後の泉岳寺への引き上げ、浪士たちの切腹、遺族の処罰(連座)までの

一連の事件を総称して、今日の史家は「赤穂事件」と呼んでいる