尼子氏が播磨を席巻し始めると、足利義晴は次第に尼子氏の武威に警戒するようになった
そして、大内氏に対し尼子氏の勢力を削ぐように仕向けている
伝承では、初期の龍野城攻めの際、たつの市新宮町馬立の城山城(亀山城)を足掛かりとし、この城を2年にわたって修復、播磨支配の根城としたといわれる
因みに、当城もまた赤松氏の居城であったところで、嘉吉の乱(嘉吉元年・1441年)に落城後、廃城となっていた城である
城山城は揖保川沿いにあり、ここから南西へおよそ25キロ向かった千種川沿いにあるのが尼子山城である
初期の城山城は天文6年・7年(1537~38)頃の在城と考えられ、尼子山城は城山城を根城としつつ、天文7年・8年(1538~39)頃にかけて築城されていったものと思われる
これら二つの城を築城した目的は前述したように、播磨守護を奪還しようとした赤松氏に対するもので、尼子氏が具体的に攻略した城郭は、既述した龍野城、三木城の他、以前紹介した赤松祐尚の播磨・小谷城が記録されているが、これ以外の赤松氏絡みの城郭もあったものと思われる
標柱に「尼子山城は尼子将監義久の居城であったが、永禄6年(1563)毛利元就に背後から攻められ落城」と記されている
傍証となる史料などが付記されていないため、なんとも判断がつかないが、出雲国における尼子氏のこの当時の状況を記した文書を見る限り、永禄6年に尼子氏並びに毛利氏が播磨国において戦っている記録は皆無である
義久自身この前年から毛利方による出雲国侵攻に対する防戦に追われ、元就が翌6年10月29日、月山富田城の尼子十旗の第一旗・白鹿城を攻略している
こうしたことから、仮に尼子山城が落城したとすれば、これ以前と考えられる
自然の要害











