あら楽し思ひは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし・・・大石内蔵助

大石内蔵助所縁の湯の山温泉「涙橋」

元禄15年10月10日、愛人小柴太夫(阿軽)を伴って湯の山を訪れ同志の集まるのを待った

9月19日山科を発ち江戸へ下向するに際し、人目を忍んで東海道鈴鹿峠を避け、ひそかに武平峠を越え湯の山温泉に入ったことは秘められた事実として知られている

夜半になって人の寝静まるころ初めて阿軽に意中を打ち明け、涙ながらに別れを惜しんだのがこの橋で、いつしか涙橋と呼ばれるようになった

内蔵助は江戸へ下向するにあたり、阿軽に金銀を与えて二条の実家へ帰した。阿軽は身ごもっていたが子供の所在は不明

ご当地菰野藩3代藩主・土方雄豊の養女(雄豊の嫡子で世嗣であった豊高の娘=孫)が、浅野内匠頭実弟・浅野大学の正室になっており、内蔵助も参勤交代の際にたびたび訪れ土地勘があったようです

その後浅野長広(大学)は綱吉将軍死去(1709年)に伴う大赦で、新将軍家宣に拝謁して安房国に500石の所領を与えられ御家再興を果たしている