砦として五色塚古墳が造られたとする説がありますが、使用されることはなかったようです
実際の戦いは遥か東にある菟道河(現在の京都府宇治川)で行われ、敗れた忍熊皇子は逢坂から近江へ逃げ、そこで自害しました
五色塚古墳は表向きは「仲哀天皇の陵墓」だったが、実は戦いのための陣地だったという説
もう一つの説は、大和王権と連合政権を組んだ葛城氏の墓?
古墳時代にあたるヤマト王権は、「倭の五王」に例えられるように各地の豪族たちを糾合した連合政権でした
その中でもヤマトの大王家と葛城氏の力は強大で、勢力を二分するかのような二頭政治が行われていたそうです
葛城氏の本拠地は、現在の奈良県葛城市や御所市の辺りだとされています
葛城氏の始祖【葛城襲津彦(そつひこ)】は娘を仁徳天皇の妃とし、大王家とは姻戚関係にありました
また南河内(現在の大阪府南部)にも勢力を張って、そこから淡路島~垂水~但馬、丹後に及ぶ勢力圏を持っていたのです
ちなみに【葛木出石姫(かつらぎいずしひめ)】という女神が但馬から葛城へやって来たという伝承があり、葛城氏の祖になったとも
それがそのまま葛城氏の流れを表しているそうですね。当時の但馬と葛城の関係性を示しているのかも知れません
小壺古墳:平坦面と墳頂には、五色塚古墳と同様に埴輪が立て並べられ、濠の中には、やはり土橋が設けられています
いずれにしても葛城氏はヤマト王権と直接繋がり、葛城地方と但馬地方を結ぶ中間点にあたる海峡の要地垂水(五色塚古墳のある場所)を支配したといえるでしょう
葛城国の首長で【垂見宿禰(たるみのすくね)】という名もあるほどですから
だとすれば五色塚古墳に葬られた人物は、葛城氏の首長だということになるかも知れません
古墳傍にお住いの年配のご婦人にお話をお伺いしました<m(__)m>
文章はRintoさん「凛として毎日を提案」より
















