北向山不動院山門

鳥羽離宮造営は、応徳3年(1086)に始まり、北殿・南殿・泉殿・馬場殿が相次いで完成

殿舎は広大な池に接して造られ、船で行き来していた

鳥羽上皇の時代に東殿・田中殿の造営が加わり、それぞれ苑池も造られた

安樂壽院を含む東殿には三重塔3基、多宝塔1基が築かれ、ほかの殿とは異なった様相を呈していた

これらの塔には白河法皇(成菩提院陵)、鳥羽法皇(安樂壽院陵)、近衛天皇(安樂壽院南陵)の御骨が収められ、墓前に御堂が造られました

東殿エリアは、死後の世界を用意したもので、まさしく極楽浄土を現世に築き上げたことが分かる

院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、当時の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していった

白河天皇陵

鳥羽離宮跡の発掘調査は1959年から1984年まで100次を越える調査が行われている

西行寺

西行が北面の武士であった頃の邸宅跡

西行68歳の時、東大寺大仏殿復興に情熱を燃やす重源から奥州藤原氏に鍍金するための砂金提供を求めるために、使者として平泉に出かけている(40年ぶりの東北)

願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ

東北行きの5年後の2月15日73歳で没した

鳥羽院陵外構