錦織

古代よりある地名で、錦部郷と呼ばれていた

機織り関係の職務に携わっていた朝鮮半島からの渡来人である錦部氏が、奈良時代以前より当地を居住地にしていたことに由来

宇佐山(信長方・森可成の宇佐山城があった)

天智6年(667)3月、白村江の戦に敗れた天智天皇(中大兄皇子)は突然飛鳥から近江に遷都

律令制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしたが、天智天皇薨去後、壬申の乱(672)で近江朝廷側が敗れたことにより、わずか5年5ケ月で廃虚となりました

日本書紀には、大蔵、宮門、朝廷、殿、内裏西殿、大蔵省第三倉、新宮、大炊、大殿などの建築物の記載があるが、長い間その実態が分かりませんでした

昭和49年の発掘調査で巨大な柱穴が13基発見され、ここが大津宮の跡地と推定されました

第一地点は、一辺140~170cmの方形の掘方を持つ東西棟の建物と、廻廊、塀などが見つかりました

東西棟の建物は内裏の南門、廻廊は複廊と考えられています

複廊は古代の宮殿に於いて、その中心となる施設を囲む廻廊に用いられる廊下の形式で格式の高いものと考えられています

昭和54年、建物跡が見つかった部分が国の史跡に指定されました

日本初の法令である「近江令」や全国にわたる最初の戸籍「庚午年籍」、漏刻を用いた時刻制度などが制定された

シンボル緑地には、天智天皇、額田王、平忠度、藤原卿娶采女安見時らの歌碑が建てられている