山麓の畑に咲く梅
周りは豊作放棄地(;_;)
古墳の案内
平群氏春日神社
平群氏は天大吉備諸進尊を祖とする
孝霊54年薨じ槍掛山丘上陵平群坐神社と申すなり
二代天岩床尊は勢益原丘上陵天岩床神社と申すなり
景行の朝堤原王は武内宿禰の養子となり勅命により平群の姓を賜り29代神手小将軍大宿禰は聖徳太子に従い守屋氏を討ち以って氏寺を勢益原丘に創建す。推古の朝
34代式部郷従二位中納言直広隅は大海人皇子に仕え吉野上市大淀町増口に住し、壬申の乱起こるや鈴鹿に進軍出陣に先立ち神前の井戸に椿の木を挿し戦勝を祈願す
自後始めて椿井を以て称号となす
軍功により鈴鹿の関を拝領、自後椿井となる
此の時社寺創建せしも戦国時代に信長の兵火により灰燼となる
現在伊勢一宮椿大神社是なり
36代右中将懐房は藤原房前の養子となり仍て藤原の平群と称す
中略・・・神護景雲2年、河内平岡より三笠山へ春日大明神の臨幸に供奉し以て初代興福寺官務衆徒となる・・・中略
57代椿井中納言氏房は実は征夷大将軍藤原頼経の3男なり、母の遺命により血脈を継ぐ為養子となり、菊桐の御紋を賜う
弘安5年、伊賀・大和・河内・阿波・4ケ国の太守として勅贈正二位大納言となり当村に椿井城を築城せり
越前政里奈良探題となり館を吉野町に移し以後椿井町と改む
永正年間懐慶政信公山城一円を賜り周辺に居城を構え以後山城椿井と称し星
霜2200有余年を経て今日に至る、かくのごとく古代より代々築かれたる平群一円の文化財を保護し後世に残し度き念願により以て一文となす次第なり
平群82代嫡 椿井一見 書
春日神社鳥居前にある宮山塚古墳
東西26m、南北24m、高さ7.1mの円墳
玄室の四壁は下半が垂直に積まれるが、上半部分は内側に持ち送られたドーム状を呈し、明確な天井石はない
奥壁中央の上下2ケ所に、石材の窪んだ場所があり、燭台を配置する龕状施設と推定されている
墳丘は東方の山頂稜線に築城された中世城郭・椿井城への登り口施設に取り込まれ、墳頂部が平坦に、墳丘が方形に加工されており、墳丘北東には土塁が築かれている













