東大阪市善根寺町にある安岡正篤(まさひろ)先生旧宅
大阪市順慶町の素封家・堀田家の4男として生まれる
孔舎衙小学校、四条畷中学校在学中に住んでいた。お父さんから四書五経の素読を受け暗誦するまで勉強したという
成績はは抜群で四条畷中学校を卒業した時の平均点は98点だった
中学卒業後、高知県の士族・安岡盛治の婿養子となる
その後上京し、第一高等学校、東京帝国大学を卒業
29歳で金鶏学院を創立し朝野の人士を集めて学を講じられた
昭和7年に国維会を結成、会長に近衛文麿が就任、役員に広田弘毅、吉田茂がおり、当時の新聞は「わが国の政治は白面の青年安岡正篤により牛耳られている」と報じました
その後日本農士学校を設立して郷学の振興を図るが太平洋戦争、終戦により解散
終戦の詔書の刪修(さんしゅう)に当たられ、「万世の為に太平を開く」の聖旨を加えて日本の向かうところを示されました
戦後は、吉田茂総理をはじめ歴代総理の政治家に宰相学を講じ、施政方針演説等にも乞われて目を通し朱を入れられました
数度にわたる文部大臣懇請も固辞され、勲章も拝辞せられ文字通り無名有力に徹し、何ものにも左右されることなく卓抜な識見を吐露して政界・財界を指導した
陽明学はもとより、古今洋の東西の学を極められ、多くの人々から師として尊敬された
昭和58年12月没(86歳)
座右の銘「六然訓」(りくぜんくん)
①自然超然:何事にも執着せず平然とし・・
②処人藹然(あいぜん):表情も態度も春の気のように・・
③有事斬然:一旦、事が起きると狼狽えずテキパキ処理する
④無事澄然:何も問題がない時は水のように澄んだ心でいる
⑤得意澹:得意な時に淡々とし謙虚な態度でいる
⑥失意泰然:失意の時はゆったりと構え落ち着いている
※中国の古代の学者「崔銑」(さいせん)の言葉


