輪島市指定史跡「長谷部信連の墳墓」

穴水城築城

鎌倉幕府大屋庄(現在の輪島)の地頭

鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」の建保6年(1218)10月27日の条に「今日左兵衛尉長谷部信連法師、能登大屋庄河原田に於いて卒す

これもと故三条宮(以仁王)の侍、近くは関東の御家人なり(大屋庄地頭に補せらる)

以仁王:後白河法皇第3皇子で平氏打倒の挙兵を行うが、宇治平等院の戦いで敗死

長馬新太夫為連の男なりとある

享年72歳という

長克連:長氏宗家32代当主で明治時代の華族

長氏33代:長基連、華族、貴族院議員

長氏34代:長昭連(穴水町名誉市民)

山岸遺跡は、平成6年10月から平成8年8月にかけて輪島病院の建設に伴う埋蔵文化財調査で検出された遺構である

この遺構からは、鎌倉から室町時代の掘立柱の建物(2棟)と倉庫が検出された

建物と建物の間には、井戸が2基検出され、1つの井戸には土師器が大量に捨てられていた

主な遺構は、掘立柱3棟、井戸2基、溝、ピット、土坑など

主な遺物は、土師器、珠洲焼、刀子、銭貨、木製品(漆器類・下駄・曲物・箸)など

宝永元年一覧記(1704)によれば、「山岸村という村の後ろに信連の屋敷跡あり、今は畠となれり」とみえ、この付近に信連館があったとされている

信連は長谷部為連の子で、長氏の祖

滝口武者として常盤殿に入った強盗を捕らえた功績により左兵衛尉に任ぜられる

後に以仁王に仕えたが、治承4年(1180)に王が源頼政と謀った平氏追討計画が発覚した時、以仁王を園城寺に逃がし、検非違使の討手に単身で立ち向かった

奮戦するが捕らえられ、六波羅で平宗盛に詰問されるも以仁王の行方をもらさなかった

平清盛はその勇烈を賞して伯耆国日野郡に流した

平家滅亡後、源頼朝より安芸国検非違使所に補され、能登国珠洲郡大家荘を与えられた

信連の子孫は能登国穴水の国人として存続し、長氏を称して畠山氏、前田氏に仕えた

大正5年(1916)、従5位を追贈された

穴水町では毎年7月に長谷部まつりが開催され、パレードでは武者行列が行われている