雨森集落を歩く(用水路が張り巡らせてあり心地よい)

芳洲の祖先は、「近江浅井家の豪族でかって雨森をもって采邑となす。因みて氏となす」と芳洲自身が語っている

雨森橋

戦国時代浅井家に組み入れられた雨森氏は、小谷城の落城とともに全国に四散しました

高時川下流方向

芳洲は、「余のごときも三代四代以前は世に雨森守といって官をもって姓となしたものだ。しかし、彼らも打ち平らげられ、一二の子孫が死を恐れて民間に入って幸い余卵を保ちえた。その人を念うごとに胸が痛む・・・」と話していた云う

高時川上流方向

東は伊吹山地、西は野坂山地

芳洲は父・清納の医者の子として生まれ、幼少から父について学問に励んだ

中島城跡がある丁野山

京都で医学を学んでいましたが、儒学にも関心が高く、18歳の時に江戸に出て、儒学者木下順庵の門に入り本格的に儒学を学ぶ

高月町馬上の田園

新井白石らと共に「木門の五先生」といわれ、芳洲はそのリーダーと言われました

県道332号線<木の本高月線>

長崎で中国語を学び、釜山で3年かけて朝鮮語を取得し、朝鮮語の会話入門書「交隣須知」を著す。江戸時代に3ケ国語が話せる国際人でした

中国語は生涯学び、80歳を過ぎてからは和歌の道を志し、最後には2万首近くの歌を残しました

生涯学習のシンボルといった向学の生涯でしたm(__)m

1990年に来日した盧泰愚大統領は宮中晩さん会の答礼の挨拶の中で「270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は誠意と信義の外交を信条としたと伝えられます・・・」と称賛した

2002年に訪韓した小泉首相は昼食会のスピーチで「誠信の交わり」の言葉を紹介されました。雨森芳洲は、日韓両国の友好の灯火として輝いているのです