あなたを、きらいになったから、死ぬのではないのです

小説を書くのがいやになったからです

昭和22年「斜陽」を発表して一躍文名を高めた太宰治は、「選ばれたものの恍惚と不安」の中に、残る生命を酒と遊蕩に浪費していた。彼は自らにいいきかせた

「地獄の思いで遊んでいる。いのちを賭けて遊んでいる

太宰は結核を患い喀血を繰り返していた。「酒でもっているんだよ。酒を飲むと元気が出てくるんだよ」、そういいながら、しかし何かものうげであった

それは精神の倦怠よりも、身体からくるだるさに見えた

太宰には妻と3人の子供がいたが、玉川上水で心中した愛人・山崎富栄とは1年前、屋台のうどん屋で知り合った

三鷹の美容院に勤める戦争未亡人で、30歳であった

人間失格を書いた時、「ぼくの作品は残り少なくなった絵の具のチューブを、無理に絞り出すようなものだ」

この頃不眠症と喀血で、生きるにたえられない状態であった

のちに発見された富栄の「愛は死と共に」と名づけられた手記に、「死のうと思っていたー」とお話したら、ひどく叱られた。ひとりで死ぬなんて?一緒にゆくよ」

肉体的にも精神的にも、死へ急ぎつつある太宰に、富栄の母性本能は燃え上がったかに思われる

富栄の遺書には「ご家庭を持っていらっしゃるお方で、私も考えましたけれど、女として生き女として死にとうございました。・・・あの世へ行ったら愛して愛して治さんを幸せにして見せます」とあった

太宰は妻の美知子あての遺書には、「永居するだけ、皆を苦しめ、こちらも苦しくかんにんしてくだされたし。子供は凡人にてもお叱りなさるまじく・・・」、以下冒頭の言葉を残し、入水した

1909-1948 39歳の生涯