高山城跡主郭跡に立つ十三重塔

身近な所にある城跡を訪ねたことで中世鷹山氏について学習をした

主なる参考物件は生駒市文化財報告書第38集・興福院(こんぷくいん)所蔵「鷹山家文書調査報告書(生駒市教育委員会)

興福院に伝わる鷹山家文書(奈良県指定文化財)

なぜ、興福院に?鷹山頼一は筒井定次の伊賀転封に従ったが、筒井氏が改易となり同じ大和出身の松倉重政を頼り肥前島原で死去。子の頼茂は大坂夏の陣で豊臣方に味方して逼塞するが大和出身の柳生宗矩の口添えで美作津山藩森家や丹後宮津藩京極家に仕えた

その後、京極家を辞して奈良に戻り出家、息子を東大寺に入寺させる。この息子がで江戸幕府より大仏再興諸国勧進の免許を得て尽力することになる公慶上人である

法楽寺や高山八幡宮を訪れ、大仏修復の祈願を行ったり大仏再建の奉加を行っている

この頼茂の従姉妹・光心尼(興福院中興開山)が

持ち込み伝来することになった

光心尼の姉の春心尼は、秋篠氏の娘である自慶院の姪であったが、その弟子となって弘文院に入寺した。光心尼は寛永13年(1636)に徳川家光より、十市郡新堂村に新しい知行地二百石と興福院の寺号を下賜されたことを機に、寺号を弘文院から興福院に改めた

 

鷹山文書は106通で、細川晴元、六角氏、畠山高政、遊佐長教らから書状を得ている

もっとも栄えた弘頼が、河内高屋城で自害(たぶん暗殺?)に追い込まれた時に、息子の藤政に筒井順慶らから送られた弔状が16通の残されている

鷹山氏系図写には、明応9年(1500)に死去した頼栄から公慶上人まで記載されている

鷹山家略譜では、頼栄から公慶上人の父頼茂までの略歴を記す

高山氏軍功記には、頼栄の父頼孝から公慶上人の兄弟姉妹まで記している

概ね15世紀末から17世紀の約200年に限定される

 

円楽寺跡鷹山氏五輪塔で、最も古いのは明応元年(1492)頼栄のもので、妙西禅定尼、頼栄尊霊、頼春大徳、弘頼禅定門、月谷見心、頼貞大徳、頼盛大徳、頼茂大徳、頼忠居士、頼安居士と続き、最も新しいのは享保9年(1724)の頼心居士

頼貞(荒木村重有岡城攻めで討死)、頼盛兄弟の死後、断絶し断絶した鷹山氏の家名を外戚の頼一に、弘頼の娘を嫁がせて相続させたが、既に所領地を失った領主であった

春心尼、光心尼姉妹の父は、頼一の兄弟・窪庄宗重(父親は窪庄城主藤宗・母親は筒井順政の娘)

公慶の姉・教誉清心尼(興福院住持)、姪に教心尼(興福院)がいる

鷹山文書は光心尼が興福院に持ち込み、鷹山氏子孫尼らが後世に伝え残したものであろう

鷹山氏の初見は、天平宝字6年(762)の「正倉院文書」「法華寺造金堂所解」にある「生駒鷹山運炭五十二斛駄」とされる

高山は添下郡に属し、河内や山城との国境に位置する交通の要所で、森林資源の豊かな地であったようだ

応永6年(1399)には興福寺一乗院方として「鷹山庄二十七町大六十歩」が注進されている

法楽寺十三重塔(主郭跡にあるものと同年代に設置されたものでは?)

代々鷹山庄の下司を努め、15世紀後半から16世紀にかけて勢力を拡大したのが、興福寺一乗院方の衆徒である鷹山氏であった

応仁の乱後に、河内一国だけでなく大和の平群郡をも実力で占領した西軍の畠山義就や越智家栄に属し、山城南部の中小武士団や、私部の安見氏などと結びながら国境を越えて活躍した

最盛期は弘頼の代で、遊佐長教、細川氏綱、畠山政国・高政に取り立てられ、城州上三郡(宇治・綴喜・相楽)の四分一群職を認められた

畠山氏の守護代・遊佐長教の被官として、長教の死後(足利義輝の刺客により暗殺・60歳)、後継者争いの中で安見宗房と対立し高屋城にて自害に追い込まれれる(37歳)

足利幕府管領の畠山氏分家は能登七尾城守護大名、遊佐氏の系統・遊佐続光は畠山七人衆の一人

鷹山氏は武門だけではなく、茶筌の創始者・宗砌、東大寺復興に尽力した公慶上人、鷹山文書を伝承した光心尼・春心尼姉妹が遺業を後世に伝えている

(鷹山家文書調査書参考)