11月28日14:43分、大納言塚

天正19年(1591)、秀吉の異父弟・大和大納言豊臣秀長が没し、この地に葬られた(享年51歳)

豊臣氏滅亡後、秀長の菩提寺大光院は移転し遺牌、墓所は春岳院に託されました

その後、墓所は荒廃したため春岳院僧栄隆、訓祥や町の人々の努力により、安永6年(1777)現在の五輪塔が建立された

五輪塔は高さ約2mで法名「大光院殿 前亜相春岳 紹栄居士」、 裏面には春岳院現住法印訓祥、郡山内町中建立之」と刻まれています

天正13年(1585)、和泉・紀伊・大和100万石の所領を有し、郡山城主となった

城の建設に本格的に取りかかるとともに「箱本」制度という独特な町方自治を行い、城下の商工業を育成し、今日の郡山の基礎を築いた

兄秀吉は当初、今の芦ケ池近くに菩提寺大光院を建立し、院主に京都大徳寺の古渓和尚を当てて墓地の管理と菩提を弔った

豊臣家が滅んだあと大光院は藤堂高虎によって大徳寺の塔頭として京都に移築され東光寺(のちの春岳院)に託された

秀長は政務、軍事面で活躍を見せ天下統一に貢献した

家康や伊達政宗など外様大名を抱える豊臣政権における調整役であり、政権安定には欠かせぬ貴重な人物であった

墓所の入り口にある「お願いの砂」

自分の名前と願い事を言いながら、門前の箱へ、3回お砂を通しますと、きっと願い事を聞いてくださいます

大和大納言秀長公は優しく賢く、とても立派なお殿様で、今の大和郡山の基礎を築かれたお方であり、「学問の智将」とも言われています、とありました

合唱礼拝<m(__)m>