学生時代4年間新聞配達をした猪飼野
区域のお客さんから聞いた話を検証し、歴史を正しく認識をすることが大切だ
猪飼野は東成区・生野区にまたがる平野川旧河道右岸一帯の地名であった
小生の区域は猪飼野中(現勝山北)5丁目~8丁目(奥田橋筋~大池橋・勝山通)
他に猪飼野西・東、桃谷、勝山北・南、舎利寺、中川、田島、鶴橋、玉津一部、大今里の一部
古代から多くの渡来人が当地にやってきてブタ(猪)を飼う風習があり、猪飼野と呼ぶようになった
飛鳥時代物部氏の勢力下にあったが、蘇我氏との戦いに敗れた後は四天王寺の領地となる
白村江の戦い後、多数の百済人が移り住み「百済野」と呼ばれるようになった。奈良時代・平安時代には百済郡が設置され、中世にかけては四天王寺の荘園地となり、猪飼野荘と呼ばれた
近代になると大阪市の近郊農村地帯であったが、市街化・工業化の波が押し寄せ、1919年「鶴橋耕地整理組合」が結成され、民間主導で農地の整理と下水道の整備が行われた
1925年大阪市に編入されると急速に住宅地・工場密集地帯へと変貌
1922年、大阪ー済州島間定期直行船「君が代丸」の就航を機に済州島から朝鮮民族が大量に渡航するようになると、当地は工場労働者の受け皿となり、朝鮮民族(大半は済州島出身者)の人口が急増した
1945年日本の敗戦により、済州島出身者の約3分の2程度は済州島に帰ったが、1948年に起きた済州島四・三事件以降再び日本に大量に渡航してきた
※済州島四・三事件:自主独立国家樹立を訴えるデモを行っていた島民に警察が発砲し6人が殺害される事件が起き、抗議の全島ゼネストが決行された。警察組織は反乱組織の壊滅を図った。1948年4月3日、南朝鮮労働党は島民を中心に武装蜂起を起こした
政府軍・警察による粛清が行われ6万人が虐殺、済州島の村々の70%が焼き尽くされた
以降、在日韓国・朝鮮人として当地に根ざした人々によってコリアタウンが形成されていった
松下幸之助も大正6年、猪飼野の借家で妻・むめ、義弟・井植歳男らとソケットの製造・販売を開始している
日本の中の小さな済州島と呼ばれていました
平野川
堀削や埋め立てに労働者として動員されたのでしょう
旧平野川、現在は埋め立てられて道路になっています
読者の郵便ポストには日本国猪飼村で郵便が届いていた
一世の方も結構いらっしゃいましたよ
猪飼野の地名は昭和48年に、勝山北・南、桃谷、中川などに地名変更されました
猪飼野ゆかりの著名人番付
横綱:松下幸之助・司馬遼太郎
大関:折口信夫・田端義夫・竹村建一
新しい時代に街や人はどのように変貌していくのだろうか( ..)φメモメモ

















