春日和 古墳群から 穴師山・・・幸山師

中央の三角形が穴師山409m

北東に神籬(ひもろぎ)遺跡があります

神籬:小字名で「ヒモロギ」は神祭りの使節で神霊の降臨する依代であった神籬に由来すると考えられている

日本書紀の崇神天皇六年条に、豊鍬入姫命をして天照大神を「倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ」とあり、神籬が神祭りの古い形式であったことが分かる

この場所に神籬を設け神霊をお迎えして、神祭りが行われたのであろう

卑弥呼が祈りを捧げた穴師山

初期ヤマト王権の発祥の地

纏向遺跡一帯の地図

穴師はミカン栽培発祥の地

約2000年前、垂仁天皇の命により田道間守(たじまもり)は不老不死の霊薬(やまとたちばな)を求め、常世の国から持ち帰った「やまとたちばな」が最初に植えられた場所が宮殿のあった穴師でした

その後、宮殿には「右近の橘、左近の桜」として植えられるようになった

纏向遺跡は、邪馬台国の有力な候補地として著名な遺跡であり、遺跡の範囲は古代からの信仰の山・三輪山を背にして、山麓から西方を望む一帯に広がっています

正確には穴師山の前衛峰ですね。山頂は奥になります

邪馬台国の有力な根拠は、遺跡の広大な面積、九州から関東に至るまでの様々な地域の土器が全体の15%出土していること

箸墓古墳を代表として、纏向石塚古墳、ホケノ山古墳など6基の発生期の前方後円墳が集中して築かれていること

農耕具がほとんど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多いことなど、他の集落と異なる特徴を多く持っています

付近には、景行天皇の纏向日代宮跡や垂仁天皇の纏向珠城宮跡の伝承地もあり、纏向遺跡はわが国最初の「都市」、初期のヤマト政権の「都宮」とも目されています

大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和し美し

景行天皇の皇子・倭建命が九州遠征の帰途、病を得て亡くなる時にふるさと大和への思いを詠まれて歌