享禄4年(1531)超勝寺・本覚寺の大一揆(証如)と加賀三箇寺(蓮如の息子たち)の小一揆が戦うことになり、能登の畠山義総が、小一揆の加勢を名目に加賀に侵攻した
義総が加勢した小一揆方は敗れ、加賀三箇寺は越前や能登に亡命し、北陸は本願寺が直接支配する体制となった
七尾の地名の由来となった城山(石動山・松尾山)の七つの尾根(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)
七尾城中心部復元図
1428年、室町三管領の畠山満慶が初代当主となり、以後十一代約170年にわたって畠山家が領国支配をした
五代当主畠山慶致の頃に府中から城山に移った。山麓に城下町が「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」と称されたと記録に残る
天正4年(1576)、能登に侵攻した上杉謙信に包囲されるが1年にわたって持ちこたえたが、重臣同士の対立を若年の当主畠山春王丸が長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることが出来ず、結果七尾城は孤立する
力攻めでは不落の城への謙信がとった秘策
謙信は、温井景隆、遊佐続光に密書を送り味方につける策に出た
最終的には、遊佐続光の内応によって籠城抗戦を主張した長氏一族が殺害され、9月13日に開城した
七尾城は越中国と能登国を繋ぐ要所であり、のちに織田氏によって領され、城代として菅屋長頼が政務にあたった後に前田利家が入り、拠点を小丸山城に移し、天正17年廃城となる
標高差300mの尾根上に配した本丸を中心に多くの郭が築かれていました
複雑急峻な地形を巧みに生かして作られた城郭は難攻不落の誉れ高い









