24日11:13分、天守台を離れる

戦国末期の七尾城は難攻不落の山城でした

天守台城山神社傍の巨樹

能登の守護の畠山氏の代々の居城

これだけの堅城がなぜお落ちたのか?

謙信が攻略した頃の城主・畠山義慶に統率力が無く、重臣たちの主導権を巡る派閥抗争が起きていた

戦国時代、畠山氏と上杉氏は一向一揆の対抗上同盟関係にあったが、最高実力者の重臣・長続連、綱連父子が信長に味方するなど不穏な動きがあった

1574年には義慶が殺され、家督を継いだ弟の義隆も間もなく急死する

その間隙をついて謙信が能登侵攻を開始したのです

長谷川等伯の養父も派閥抗争で殺され、妻を連れて京へ向かうことになりました

1577年、七尾城内での内部分裂、疫病の発生で自滅したも同然です

堅城も滅びるのは人が要因ですね

遊佐屋敷は本丸のすぐ西側に接し、城跡の中心部にあることから、城主に次ぐ守護代の地位にあった

本丸に通じていた