『野望説・偏差値50』

明智家の始祖とされる土岐氏の再興が野望説として取り上げられるが、天下は一氏族、個人的なものではない。光秀も二義的な動機としてはあったかも知れないが、最初はそこまでの野望はなかったであろう

敢ていうなら、目の前に山があったから登ってみた、といったところではないでしょうか!?

平和な世を目指すなら、政権構想(グランドデザイン)、マニフェクトが必須である。光秀は変後の諸所への書状に「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」と記し送っている

光秀は能吏であり、参謀としてはとても優れていたが、戦国の世を終わらせ、天下人になるにはちょっともの足りないように思うのは私だけであろうか

以下、状況証拠となるものを列挙する

・クーデター後の展望・政権構想を描いていた

・反信長勢力と手を結ぶ(義昭・長宗我部・毛利・上杉など)

・近江を平定、美濃家臣団切り崩し

・天下取りの野望、「そこに天下があったから」

・信長を討ち果たし、天下の主となすべき調儀を重臣(利三・秀満・藤田伝五・次右衛門)らに伝えた

・光秀は千載一遇の機会を逃さなかった

・積極的に天下取りを目指すため、信長排除を企てた

・愛宕百韻『ときは今雨が下しる五月哉』

土岐氏の一族である光秀が天下を治める時期が巡って来た

・与力衆(細川藤孝・忠興父子・中川清秀・池田恒興・筒井順慶・高山右近)を取り込めるだろう

・反信長である堺商人衆・公家衆・法華宗・高野山も味方するだろう

・朝廷や寺社に金銀を贈る

・光秀が利三への返書に「予のような大利を得た大将にはいかなる天魔波旬も向かっては来れないぞ」と書き送っている

・ガラシャは光秀の動機を知っていた。父を尊敬し、恥じずべき存在ではないと思っていた