15日15:31分、「セミナリヨ趾」

天正8年(1580)、信長より教会建設用地として下付された

イエズス会のオルガンチーノ神父は直ちに高山右近はじめ近在の信者たちの熱烈な援助を受けて、ここに3階建ての堂々たる住院を完成した

その後間もなくこの建物を用いてセミナリヨ(カトリック小神学校)が開校された

1階には茶室の付いた座敷があり、2階は神父の居室、3階は教室と生徒の寮として使用された

1日2食、休憩・食事2時間を含めて15時間の修学

授業科目には、日本文学、キリスト教理、ラテン語、修辞学、音楽などがあり、後に日本26聖人の一人となったパウロ三木はじめ、諸国から集まった20数名の少年たちが寄宿して勉学に励んでいた

信長の特別の許可により、安土城と同じ水色の瓦で屋根を葺いた豪壮なセミナリヨには、連日多数の貴人が訪れたが、信長自身もしばしばここに立ち寄り、時には少年の演奏するオルガンに聞きとれていたと伝えられる

かくして安土はこのセミナリヨにより、日本におけるキリスト教の一大中心地となるかにみえた

しかし、1582年6月信長が本能寺の変に死するや事態は一変し、セミナリヨの壮麗な建物も、明智勢の侵略により廃墟と化した

やむなくセミナリヨは京都へ、さらに高槻、大阪へと移り、1587年秀吉の禁教令に際しては、肥前国(長崎県)有馬のセミナリヨに合併される

それも遂には、1614年徳川幕府の大追放令のもとで廃校となり、その苦難の歴史を閉じることになった

セミナリヨの入り口まで川が通っています

安土城や琵琶湖と海路が通じています

若手のM・Nさん