西国の毛利氏を頼りに返り咲きを狙う義昭

還俗将軍には頼れる家臣がいない。細川藤孝、明智光秀にも見限られた

両人は信長に仕えている

人質を指し出して降伏した義昭は、河内へ落ちていく

途中、一揆に襲われて御物も衣類も奪われ、三好義嗣の居城の河内若江城へ着いた時には丸裸で、貧乏公方と世人から嘲られた。これをもって室町幕府は滅んだ

だが、義昭は諦めず、あがきつづける。諸国に御内書を濫発し、信長に負けた武将らは言うに及ばず、越後の上杉謙信や相模の北条氏政、遠く薩摩の島津義久などにも支援を求めた

信長の同盟者の徳川家康にも命じるという臆面のなさだ

天正4年(1576)2月、義昭は紀伊由良から渡海して、毛利氏の海の玄関ともいうべき備後鞆へ居を移す。先触れなしの突然の動座だった

毛利氏は驚き、うろたえた

いま義昭を保護すれば、旭日昇天の勢いの信長と事を構えることになる

といって、義昭に毛利領入りという既定事実を作られてしまった以上、釈明は難しい

信長の猜疑心の強さはよく知られていた

流浪の将軍を奉じて戦わざるを得ない状況へ、毛利氏は追いこまれたのだ

それこそが義昭の狙いだった

足利尊氏は、後醍醐天皇派に敗れて九州へ落ちると、西国の武士を糾合して東上し、楠木正成、北畠顕家、新田義貞らを討って、初代将軍に任ぜられた

10代将軍義稙は、将軍職を解任されて周防国へ落ちながら、大内義興に擁せられて上洛し、前例のない再任将軍の座に就いた

西海落ちは足利将軍に幸運をもたらす

義昭も毛利氏を率いて還京し、信長を討ち果たしたかった

宮本昌孝「歴史街道・人間往来」より