天守閣眼下に見ゆる明智藪・・・幸山

丹波を平定した光秀は、福知山城の縄張りを行い、治政に反抗的な近隣社寺を打ち壊し、石塔類を天守台の石垣に利用したと伝わる

天守の一部は、城再建時の発掘調査で、光秀の時代に造られたことが確認されています

現存している石垣は、大小の自然石(野面石)を用いた「穴太積み」技法によって積まれています

五輪塔や宝篋印塔などの石塔が大量に使われている

石垣に組まれているもの約90点、内部の栗石として使われているもの約250点

城下町を造るために堤防を築いて由良川の流れを変え、町に地子銭(税金)免除の特権を与えて商家を育てたとも伝えられている

短期間ではありましたが、光秀は強く人々の記憶に刻まれ、城下町の鎮守である御霊神社に祀られ、「明智光秀丹波を広め、広め丹波の福知山」と福知山音頭で謡われている

城代となった明智秀満は三宅弥平次と名乗っていたが、荒木村重の嫡男・村次の室であった光秀の娘を再嫁し、それに伴い明智姓を与えられた

本能寺の変の計画を事前に知らされていた五宿老の一人とされ、変後には安土城の守備を任された

山崎の合戦後、坂本城へ撤退する途中、秀吉方に行方を阻まれ、琵琶湖に愛馬で乗り入れたという「湖水渉り」の伝承が有名

坂本城に帰城後、坂本城の宝物を目録とともに秀吉軍に明け渡し、自らは残った明智一族と運命を共にしたと伝わる

福知山城や城下町は、光秀が入ったころから本格的な整備がされたものと思われる

城下町の創始者である光秀は、福知山音頭に唄われ、踊られ、名君として親しまれている

17:05分発の巡回バスに乗車し福知山駅へ向かった

丹波平定で信長から「天下の面目をほどこし候」と絶賛された光秀、平定から2年4ケ月後の本能寺の変までの間、二人の間に何があったのだろうか?

電車待ちが40分ほどあったので駅前の居酒屋「小間蔵」で打上げ

18:12分発の快速で帰阪しました

台風14号の接近で天気が心配される中、ご参加いただきありがとうございました<m(__)m>