千丈寺南陵から黒井城主郭(猪ノ口山山頂)が見えました

歴代黒井城主

<赤松貞範>赤松則村の次男。父とともに建武の乱(1336)では足利尊氏について戦功をあげて、播磨伊川庄・丹波春日部庄ほか21ケ所を領し、美作の守護職に任じられました。黒井城は赤松貞範が丹波春日部庄を領した以降に築城されたと考えられています

<荻野秋清>酒梨の留堀城を舘とし、春日部庄を中心に天田郡の一部を支配していました

しかし、家臣の長谷城の城主・秋山修理太夫が八上城の波多野晴通によって討たれたことや、敬神の念が篤く、領内の円通寺などに領地を寄進し経済基盤を削ったことから家臣に不信を抱かれ、天文23年(1554)1月2日、甥の荻野直正が中心となった謀反を起こされ亡くなりました。なお、死後は直正が建立した清安寺(現存せず)に弔われています

<赤井直義>荻野直正の次男。長男の悪七郎が若くして亡くなっていたため、直正の死後に嫡男として黒井城主になります。しかし、未だ9歳であったため叔父の赤井幸家が後見人となり、明智光秀の再度の攻勢に備えていました。黒井城落城後は伊勢国津藩主・藤堂高虎に仕え、赤井姓を名乗ります。また、直正と同じく悪右衛門と称していました

<堀尾吉晴>山崎の戦の後、天正10年(1582)夏、羽柴秀吉の軍代として黒井城下館に入り、奥丹波の統治にあたりました。この戦火で焼けた柏原八幡宮神社の造営奉行となり社殿を再建し、所領を寄進しています

<赤井時直>荻野直正の末弟。黒井城落城時は後谷城主だったと考えられています。黒井城落城後の天正12年(1584)4月、小牧・長久手の戦いで徳川方に呼応して一揆を策動し、黒井城と余田城に立て籠もりました。この時、徳川家康から丹波の国のことは赤井氏の存分にまかせると約束されています。慶長6年(1601)、一族の山口直友が丹波国奉行に任じられ、この約束が果たされました

<小富士山城>猪ノ口山の東南にあり、光秀が黒井城攻めの際に旧宮津街道の抑えの拠点として陣城を築いた

西の砦磐座でのツーショット(*^▽^*)

<三尾城跡>黒井城主・荻野直正の弟・赤井幸家によって築かれた黒井城の支城

踏み跡のない急坂を下りる

<金山城跡>光秀が赤井氏と波多野氏の勢力を分断するために築いた城。山頂からは、黒井城、八上城、高見城という赤井・荻野・波多野勢の主要な城が展望できる

兵主神社歴代宮司の墓所