黒井城城主・荻野直正は、甲斐武田氏の甲州流軍学書「甲陽軍鑑」の「名高き大将衆」13人に数えられ、「丹波の赤井悪右衛門」と記され、「丹波の赤鬼」よ呼ばれ恐れられた

直正は幼名を才丸といい、享禄2年(1529)に丹波市氷上町新郷・谷村の後谷城主・赤井忠家の次男として誕生

丹波市朝日の朝日城を拠点とする荻野18人衆の盟主として荻野家に入り、荻野姓を名乗ります

天文23年(1554)正月2日、年賀の席で叔父の黒井城主・荻野秋清を倒して黒井城主となり、悪右衛門を名乗る

永禄8年(1565)、丹波の守護代・内藤宗勝を倒し勢力を拡大する

勢力を伸ばしてきた信長に対し一度は服命しますが、但馬此隅城の山名氏との関係が悪化し、これが一因で信長と敵対することになります

信長は、天正3年(1575)光秀を総大将として丹波平定に派遣

光秀は、八上城主・波多野秀治ら丹波国人衆の大半を服従させて黒井城を包囲し、来春には落城するという噂が出る状態でした

しかし、翌年正月15日、波多野秀治が寝返って光秀の陣を急襲し、総崩れとなった光秀は壊滅的打撃を受けて栗柄峠方面へと退却を余儀なくされました

これは後に「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれています

第1次丹波攻めの後、信長は直正を許しましたが、その間も直正は武田氏、石山本願寺、吉川氏らの反信長勢力と連携をとっていました

しかし、直正は天正6年(1578)3月9日病死(49歳)

直正の訃報はすぐ京へも伝わり、これを機に光秀は再度丹波攻略を開始し、3月20日八上城を包囲して波多野氏への兵糧攻めが始まります

八上城は6月1日に落城し、続いて8月9日には黒井城も落城した