光秀は波多野秀治の攻勢に対して、金山城を築いて多紀郡と氷上郡を分断し、八上城の周囲に堀・塀・柵などを築いて秀治を追い詰めていった
光秀の徹底した攻囲によって八上城の補給路は完全に断たれ、城内では餓死者が続出するなど凄惨な籠城戦が続いた
やがて、城内は抗戦派と和平に分裂、ついに秀治ら兄弟は城内に路地にて捕らえられ光秀の下に差し出された
天正7年6月1日のことであった。こうして八上城は落城、安土に送られた秀治京大は信長の命によって磔刑に処され波多野氏は滅亡した
信長は「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこした」と激賞、丹波一国は光秀が治めることとなった
黒井城攻め、信長の意向を忖度し、秀治を先鋒ではなく後陣に付けたことにより挟み撃ちにされたとも
光秀の母・お牧の方を人質に差し出しており、信長が秀治兄弟を処刑したことにより、光秀の母が処刑された場所とされる
このことも光秀に影響を与えたものと思われる
馬を調教した場所なのか
なだらかな道もありました
ネズミサシ:針葉をネズミ除けに使っていたことから、「ネズミ刺す」という意味で「ネズミサシ」となった
砦が彼方此方に設けられていた











