図根「三級基準点」

京都の後背地を占める丹波国は、室町幕府管領を務めた細川京兆家が守護職を世襲し、船井郡八木城主の内藤氏が守護代に任じた

応仁の乱を経て戦国時代となった16世紀になると多紀郡の波多野氏、氷上郡の荻野(赤井)氏らが台頭、群雄割拠する情勢となった

永禄11年(1569)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、波多野・荻野氏ら丹波の諸勢力は将軍義昭と信長に服属した

その後、信長と義昭が不和になると、荻野直正は毛利氏に通じ、甲斐武田氏、本願寺らと組んで反信長色を鮮明にした

天正3年(1575)、毛利氏の因幡攻めに呼応した直正は但馬に攻め入ると竹田城を攻略した

窮した山名祐豊は信長に援助を求め、それに応えた信長は光秀を丹波に派遣して黒井城攻めを命じた

ところが、翌年の正月15日、突如波多野秀治が光秀から離反、大敗北を喫した光秀は京へと逃げ帰った

破れた光秀は、亀山城を築き、軍道を整備するなどして、第二次丹波攻めの準備を進めた

その一方で、本願寺攻め、播磨攻めに従軍、その間、病に伏すなどした光秀が再び丹波に攻め入ったのは天正5年10月の事であった

光秀は籾井城、細工所城などを攻略、波多野氏の本城である八上城に陣を進めた

翌6年、毛利氏と結んだ播磨三木城主の別所長治、摂津有岡城主荒木村重らが次々と離反、これに力を得た波多野秀治は光秀が築いた陣城に攻勢をかけた