波多野氏の出自は、石見国の吉見清秀が細川勝元に仕えて応仁の乱で活躍、故あって母方の苗字であった波多野を名乗った

細川正元より多紀郡の小守護代に任じられ、多紀郡に下向してきたことに始まったというのが定説化している

丹波生え抜きの武士ではなく細川氏を後ろ盾とした新興勢力であった

清秀が文書上に現れるのは文明17年(1485)の守護代上原氏の遵行状においてで、清秀が拠点としたのは高城山南西麓の尾根先にある奥谷城とみられている

以後、波多野氏は細川氏のうちわもめを巧みに泳いで、着実に勢力を拡大していった

そして、高城山に八上城を築いて拠点にすると、丹波から摂津、京方面まで影響力を及ぼすに至った

波多野氏の歴代については不明な点が多いが、初代清秀より元清ー秀忠-元秀ー秀治という説が有力である

元秀のとき三好長慶との戦いで八上城を失い、10年間に及ぶ流浪生活を強いられた

永禄9年(1566)、元秀・秀治らは八上城を奪還、ふたたび丹波一円に勢力を広げていった

永禄11年(1569)、信長が義昭を奉じて上洛すると、太刀や馬を献上して信長に服属した

しかし、信長と義昭が対立すると、赤井・荻野・内藤氏ら丹波国衆は義昭に通じて、信長から離反した

対する信長は天正3年(1575)、光秀を大将とする丹波攻めを開始した