豊臣秀吉が政権をとると、大和は豊臣秀長が領主となり椿井町に代官所を設け奈良の支配にあたった
「櫃本」とよばれる12の郷から6人の年寄りが選ばれ奈良惣中という自治組織を形成
徳川時代になると家康の側近大久保長安が奈良代官に任命され、100町が町として確定され、それを総称して奈良町と呼ばれるようになった
その後、中坊秀政、五味藤九郎、小俣景徳まで42代の代官が奈良町を支配した
慶応3年10月の大政奉還、12月の王政復古が宣言され明治新政府が発足すると、小俣景徳は謹慎の身となる
明治元年、新政府の軍事参謀烏丸光徳が薩摩兵らを従えて奈良に入り、大和鎮台を置く
明治4年7月廃藩置県断行、11月に大和一国を奈良県とする県令が成立
明治5年5月、戸籍法による行政区画が発足
明治政府の神仏分離政策による廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるなかで、興福寺では僧侶が春日社神官となっていなくなり、一時廃寺となるなど大きな打撃を受けました
この混乱にまぎれて重要な経巻や仏具が処分され、什宝類がなくなり、五重塔が売りに出されようとしたり、興福寺はかっての面影を残さないほどさびれたという
奈良で最初の新聞「日新記聞」には、県庁が開かれ、役人は散発・脱刀・洋服姿で靴のまま庁内を歩いて人々を驚かせた
牛肉店ができ、散発店が開かれ、饅頭屋がカステイラの販売を始めたことなど、奈良町の文明開化の様子を伝えている










