如意寺で目にした山本城・宇野秀清の存在
光秀の丹波侵攻の案内役を務めたと言われる人物
スマホでトロッコ列車15:30発の予約状況を確認すると満車でした
窓口まで行ってみると5名なら乗車できるとのことで、女子5名グループを乗せ、残り26名はJR馬堀駅に向かった
天正10年5月27日、光秀が信長への謀反を企て助力を求めた際、秀清はこれを断り、逆に光秀を諫めた
光秀が「ときは今あめが下しる五月哉」を詠んだ連歌会はが開かれたのは5月28日である
このことが事実なら、光秀は愛宕山に登る数日前には信長の弑逆を決めていたことになる
その帰途、秀清は明智孫十郎(比田則家)の手により暗殺されたと伝わる
山本城跡の如意寺には宇野秀清の位牌が祀られているらしい
秀清は明智軍の旗本で部将でした
光秀の秘密を知ってしまったことで命を奪われたという
<明智軍の五宿老>
斎藤利三
明智秀満
藤田行政
明智光忠
溝尾茂朝
<一門>
妻木広忠
妻木範煕
<近臣>
進士貞連
多治見国清
沼田光友
<部将>
猪飼野昇貞
山崎長徳
伊勢貞興
御牧景重
諏訪盛直
津田重久
山本秀勝
宇野秀清=官途は豊後守
並河易家
松田政近
四天王政孝
荒木行重
木村吉清
<三羽烏>
安田国継
古川兼友
箕浦豊茂
宇野秀清が何時どこで謀反を告げられ諫言したのか?
そして何処で諌死したのか?調べなければならない
※本能寺の変は、光秀が衝動的に起こしたという説もあるが、秀清の件でこれは消えた
篠町の大堰川支流鵜ノ川に架かる橋から、みすぎ山、唐櫃越を見上げる