赤井の呼び込み戦法<光秀を破る>

丹波攻めの総大将を命じられた光秀は、赤井氏と並んで二大勢力を誇った八上城主の波多野秀治を取り込み、着々と直正包囲網を形成していった

砦が築かれていた千丈寺山

そうして、丹波の豪族たちの大半を味方につけた光秀は、満を持して大軍により黒井城を包囲した

百毫寺のある集落

当初は「すぐに落城するであろう」と書かれた光秀の書状も残り、赤井軍が圧倒的に不利な立場であったとされる

天守台北側

しかし、籠城2ケ月以上たとうとしていた頃、波多野秀治が突如、反旗を翻して明智軍を急襲した

天守台を見上げる

赤井・波多野軍に三方から攻め立てられた明智軍は大敗し、光秀は命からがら坂本城に逃げ帰った

石垣が草と土に覆われている?

これは直正の作戦ともいわれ、後に「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれる

その勇猛果敢な戦いぶりから「丹波の赤鬼」として武名を轟かせた

多田方面への下山道

天正5年(1577)、信長は再度、光秀に丹波攻めを命じる

翌年、武勇を誇った直正が病死すると、求心力を失った丹波の諸将は次々に討伐される

光秀は前回の失敗を踏まえ、今回は一気に黒井城を攻めようとはせず、周りの城から攻略

天正7年(1579)、、孤立した黒井城はついに落城の憂き目にあった

その後、丹波国は光秀が統治するが、直正の武名は後世に語られ、丹波の名将として今に伝えられている

三の丸から東方面