信長が認めた戦国の知将・光秀から見た黒井城攻め
天正3年(1575)、信長から丹波・丹後の平定を命じられる
天正4年(1576)、黒井城の赤井直正を攻めるが、寝返った八上城の波多野秀治に背後を襲われて、命からがら坂本城に帰陣する
赤井の呼び込み戦法と呼ばれ、光秀軍は挟み撃ちに遭う
天正5年(1577)、再度丹波攻めを命じられ、黒井城を落とし、丹波を平定し、丹波一国を与えられる
光秀は、黒井城の赤井氏と、八上城の波多野氏の連携を分断するため郡境の金山537mに金山城を築いた
頂上には大空に横たわる巨岩「鬼の架け橋」がある
本丸跡には石垣が残る
赤井直正に1度目は敗れたが、2度目は一気に黒井城を攻めず、周りの城から落としていく作戦をとった
さらに、二大勢力であった赤井氏と波多野氏を分断するため中間地に金山城を築城した
相手の戦意を奪う作戦で知略を駆使し、苦難の末に丹波を平定した
信長は、「日向守(光秀)働き、天下の面目をほどこし候」と、戦功を激賞している
光秀は信長家臣団の中では、教養豊かな知識人で智将として評され、当時の織田軍団で最も鉄砲の運用に長けていたと言われている







