元亀2年(1571)正月、光秀は同僚の細川藤孝に「今年は比叡山延暦寺を亡ぼそうと思う」と

漏らしている(綿考輯録)

それから半年以内に西近江の宇佐山に入る

浅井・朝倉連合軍に協力する延暦寺はなにがなんでも排除しなければならなかった

甲賀の三雲高治とも連携し、比叡山延暦寺と南近江の敵勢力・六角氏との間を断ち切って延暦寺を孤立させた光秀は、9月2日に「仰木の事は是非とも撫で切りに仕るべく候」と雄琴城主の和田秀純に書き送る

9月11日夜、織田軍は2万の兵で延暦寺を包囲

延暦寺の僧兵は2000~4000人であったとか

延暦寺は焼き討ちされ、光秀は志賀一国と坂本城築城を許可された

野良猫ですが太ってました(=^・^=)