23日16:15分、豊臣秀長により築かれたとされる追手門(梅林門)
慶長19年(1614)大坂冬の陣が起こり、藤堂高虎は10月25日郡山に着陣し、戦闘配置についたものの、東西の和議が整い事なきを得た
翌元和元年(1615)4月大坂夏の陣の際、時の城番筒井主殿頭は大阪方の誘いを断り、徳川方に味方したので大阪方の攻撃に遭い、福住に逃れた
5月8日大阪落城を知った定慶は、士道に恥じて切腹して果てたといわれている
追手東隅櫓
戦後の論功において戦功第2となった水野日向守勝成が6万石をもって郡山に封ぜられたけれど、城郭は荒れ果ててしまっていた
追手向櫓
石垣や堀の修築は幕府直轄事業とし、本丸御殿、家中屋敷などの家作りは勝成の手で普請を進めた
しかし、在城わずか5年で備後福山城に移され、代わって戦功第一の論功を受けた大阪城主・松平下総守忠明が元和4年(1618)10月、12万石をもって郡山城主となった
その時、城には十分な建物はなく、家康の命で諸門を伏見から再び郡山に移したので、近世郡山城の偉容は整った
追手門もその一つで、当時この門を一庵丸門と呼んでいた
その後、本多内記政勝、政長、政利、松平日向守信之、本多下野守忠平、能登守忠常、信濃守忠直、唐之助忠村、喜十郎忠烈と続いたが、忠烈に嗣なく本多家は断絶する
享保9年(1724)3月11日、禁裏守護の大任を帯びて甲府城から柳沢甲斐守吉里が移封となって郡山城に入り、6代に亘り明治維新まで続いた










