摠見寺仁王門(楼門)
堅田合戦②(前日の続き)
元亀元年(1570)の志賀の陣に際し、殿原衆が信長に内通し、信長軍を堅田に入れるが、全人衆と組んだ浅井・朝倉連合軍との間の戦闘が勃発し、信長軍は惨敗する
正面の柱間の中央間を出入り口とする楼門を三間一戸楼門と言って実例が多い
信長は堅田を手に入れる絶好のチャンスだったが、全人衆達にやられた。まだ時期尚早か
木造金剛二力士立像(左)
頭部の内側に応仁元年(1467)因幡院朝作の造像銘が残っており、信長公が天正年間に甲賀から移した
いずれにしても堅田を手に入れなければ、儂の船を自由に湖水を行き来させることができない。坂本城の光秀に命じ、堅田の切り崩しをさせねば
木造金剛二力士立像(右)
光秀は比叡山焼き討ちに向けて、殿原衆の一部を味方につけた。これを足掛かりに殿原衆の船持達を味方につける調略を進める
正面の脇間に金剛柵を設け、金剛力士の像をまつるための仁王門と名づけている
元亀3年(1572)、信長は三方ケ原合戦で武田信玄に敗北を喫する。これを見た、信長への敵対を強めてきた将軍義昭は石山に砦を造り、さらに堅田城に磯谷久継、渡辺昌の兵を入れる
棟木に「元亀2年(1571)7月甲賀武士山中俊好建立」とある
これに対して信長は直ちに兵を発し、柴田勝家らが石山砦を落とすと、堅山城を光秀が囲船群を率い湖上から、丹羽長秀らが陸上から攻撃した
本殿への石段
4時間余りの激戦の末、光秀の水軍が防御を破り、これをきっかけに堅田城を落城させる
組物は上下層とも三手先で、和様を主調とした最も一般的な形式であるが、
光秀は堅田を落とすチャンスが巡ってきた。殿原衆衆と呼応して、湖上から攻撃、昨年造った囲船を今回も使おう
下層中央間の刻入りの蟇股や隅柱の上部についている頭貫の木鼻などは室町末期の特徴をよく表している
少々の犠牲はやむを得ん。何としても堅田を落とし、この海峡を手に入れる!決意であった
天主と城下町を結ぶ百々橋(どどばし)口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが、数々の記録に残されている
やっと、堅田城を落とした。ここで18人もの部下を死なせてしまった。申し訳ない
本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼を免れることができた
しかし、堅田はそれに見合う以上の価値がある。これで信長の船が自由に湖水を行き来するこおとができる
しかし、江戸時代の末期の嘉永7年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を焼失してしまいました
そして、港としての私の坂本城の価値がますます高くなる。私も湖水支配の一翼を担うことができる
その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に至るで法灯を守り続けています
大手道へ向かう山腹の道












