遠景山「摠見寺」三重塔
臨済宗妙心寺派の寺
このような情勢の元、元亀元年(1570)の志賀陣に対し、殿原衆が信長に内通し、信長軍を堅田に入れるが、全人衆と組んだ浅井・朝倉連合軍との間の戦闘が勃発し、信長軍は惨敗を喫する
元亀元年は、堅田を手に入れる絶好のチャンスだったが、全人衆達にしてやられた
信長公が安土城築城の際、他所より移築し本丸の西方に自らの菩提寺にしたと伝えられる
まだ時期尚早か
いずれにしても堅田を手に入れなければ、儂の船を自由に湖水を行き来させることが出来ない
天正10年の天主崩落の際も焼け残ったが、安政元年(1854)の火災で本堂など殆どを焼失
今は礎石のみが残る
坂本城の光秀に命じ、堅田の切り崩しをさせねば
天主からも、摠見寺からも絶景が望める
志賀陣で信長様は堅田に負けた
坂本城を任された後、比叡山の焼き討ちに向けて、殿原衆の一部を味方につけた
これを足掛かりに殿原衆の船持達を味方につける調略を進めて行こう
本堂の南に建つ三重塔
享徳3年(1454)建立され、摠見寺創建時に甲賀郡長寿寺より移築されたもの
焼失を免れた三重塔は重要文化財に指定されている
元亀3年(1572)、信長は三方原の合戦で武田信玄に敗北を喫する
昭和7年大手門近くの伝徳川家康邸跡に仮本堂が建てられ現在に至る
これを見た、信長への敵対を強めてきた将軍義昭は石山に砦を造り、さらに堅田城に磯谷久継、渡辺昌の兵を入れる
寺宝として信長公所用の永楽銭を散らした銀象眼の鉄鍔(まけずのつば)、信長公の陣羽織が伝えられている 
これに対して信長は直ちに兵を発し、柴田勝家等が石山砦を落とすと、堅田城を光秀が囲船群を率い湖上から、丹羽長秀らが陸上から攻撃する
仁王門から本堂へ向かう石段
4時間あまりの激戦の末、光秀の水軍が、防御を破り、これをきっかけに堅田城を落城させる
元亀2年(1571)に建立され、摠見寺創建時に甲賀郡柏木神社より移築されたもの
やっと堅田城を落とした
ここで18人もの部下を死なせてしまった
申し訳ない
しかし堅田はそれに見合う以上の価値がある
諸大名は、百々橋門から仁王門、摠見寺から天主の信長に参上仕った
信長様の船が自由に湖水を行き来することが出来る
そして、港としての私の坂本城の価値が、ますます高くなる
私も、湖水支配の一翼を担うことが出来る
摠見寺の開山は織田信安の三男で禅僧の剛可正仲
代々の住職は織田家の一族から選ばれている
青文字は、大沼芳幸著「琵琶湖から本能寺の変の真相に迫る」より










