麒麟がくる①で紹介できなかった「堅田合戦」にも触れておきましょう
堅田は琵琶湖が最も狭まるところの西側に発達した集落である
黒金門に至る石段
琵琶湖を行き来する船は、この狭い海峡を必ず通らなければならない
この海峡を抑えることは、琵琶湖の船運を支配することにつながる
けっこう急です
堅田の歴史は、この特殊な地形の元に紡がれてきた
信長にとって、堅田は絶対に手中に収めなければならないところである
大手道分岐を摠見寺へ向かいました
船運による経済の掌握は元より、信長自身が琵琶湖を使って都との間を自由に行き来するためには、この海峡の安全運航が保証されていなければならない
上り詰めると境内に出ます
11世紀頃、堅田は下賀茂神社の供御人の地位を手に入れる
神に対し定期的に、確実に琵琶湖の魚を供進するためには、確実に魚を捕る必要がある、ということを理由に、堅田は、琵琶湖の自由航行権を正当化していく
一方で、延暦寺の荘園下も進む
琵琶湖航路の最大の荷主は延暦寺である
登ってきた階段です
その延暦寺が、船荷の安全運搬のために、この海峡を管理しようとしたことは当然である
現在の本堂は大手道脇の伝徳川家康邸跡に移されています
下賀茂神社・延暦寺の保護のもとで、堅田は力を蓄え、船を操り武力を持った階層の「殿原衆」(とのばらしゅう)と、商人・農漁民階層層の「全人衆」(まろうどしゅう)に分かれ、それぞれの代表による合議により堅田を運営するようになる
江戸時代に描かれた近江名所図会「安土山摠見寺」
殿原衆は、延暦寺に認められた海峡の管理を拡大解釈し「上乗権」と称する通行する船に対する武力を背景にした課税により、力を付け、徐々に領主である延暦寺からの独立性を強めるようになる
摠見寺本堂跡
ほぼ同じころ、京都での布教活動を延暦寺により妨害された浄土真宗の蓮如は、堅田の本福寺の本拠を移し、全人衆に対して、教線を拡大させる
西の湖を見下ろす展望台にある
ここにおいて全人衆にも延暦寺と反目する要素が生まれる
そして沖島の項でも触れた「花の御所」造営用材を殿原衆が横領したことに端を発し、幕府の命令を受けた延暦寺による「堅田大責」が勃発する
四季折々の美しい姿を見せてくれる西の湖
2年後、沖島に逃れていた堅田衆は、延暦寺に莫大な礼銭を払い、堅田に復帰するが、武力で延暦寺に屈した殿原衆の勢力が弱まり全人衆が堅田の運営の主体となる
眼下は下豊浦の町
青文字は、大沼芳幸著「琵琶湖から本能寺の変の真相に迫る」より
〝明日に続きます”











