賀茂の河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの・・・白河法皇
宗祖大師殿
中から声明が聞こえてきます
宗祖圓戒国師慈摂大師(真盛上人)の木像が祀られています
背後には比叡山の前衛峰「三石岳」
堂内には昭和天皇より下賜された「慈摂」の勅願が掲げられている
境内から琵琶湖の眺望
三石岳から横川中堂への稜線
元亀2年、信長は比叡山焼き討ち後、光秀に滋賀郡を与え、坂本城を築かせた
和歌や茶の湯をたしなみ、臣下領民に厚く自らも鉄砲の名手という文部両道の人であった
朝倉義景、足利義昭、織田信長の間で苦悩し、奔走し、嘆願し、常に優れた功績を残しながらも報われない無念の武将であった
山崎の戦で秀吉に敗れ坂本へ落ち延びる途上、武者狩りの手にかかり自刃。娘婿であり重臣の秀満が坂本城に籠るも、秀吉の大軍に包囲され、自ら城に火を放ち光秀の妻子とともに自害、坂本城は落城した
信長より延暦寺の監視と滋賀郡の支配を任されて光秀は、坂本の琵琶湖畔に当時としては随一の規模を誇る坂本城を築城
大天守と小天守を持ち、城内に琵琶湖の水を引き入れた水城で、ルイス・フロイスは坂本城は信長の安土城に次ぐ、第2の名城だと讃えている
その遺構の大半は水中に没しているが、琵琶湖の渇水期に水位が下がると、湖面から石垣が現れ、当時の面影を偲ばせる
本能寺の変から4年後、秀吉は坂本城を廃城にし、大津に城を移す。大津百艘船仲間を作らせ、琵琶湖水運の要衝とすることで新たな戦略的拠点を築く。浅野長政、京極高次が城主となるが、大津城は長等山からの砲撃の射程に入るという理由で廃城となり、代わりに膳所城が築かれる。関ヶ原の戦いの勝敗は、小早川秀秋の寝返りと、大津城の京極高次が毛利軍15000人を足止めさせたことが勝因のように思う
近江神宮駅近くの「近江湯」で汗を流した
人間10代遡ると先祖は1,024人
20代遡ると先祖は1,048,576人
27代遡ると先祖は134,217,728人で1億人を突破する
30代遡ると先祖は1,073,741,824人
40代遡ると先祖は1,099,511,627,776人
50代遡ると先祖は1,125,899,906,842,624人(1000兆人を超える)
小生の知人・五鬼助義之氏は61代目 ?人(計算できません)
人の命はこうして現在まで引き継がれてきているのです(◎_◎;)













