本堂正面西側に立つ悲劇の武将・明智光秀(秀岳宗光大禅定門)一族の墓

 

修行の道には順縁と逆縁の二つがある。しかしこれは二つに非ず、実は一つの門である

即ち、順境も逆境も実は一つで、人間の心の源に達する大道である

而してわが五十五年の人生の夢も醒めて見れば、すべて一元に帰するものだ

山﨑の合戦で敗れた光秀が、この偈を従士の溝尾庄兵衛に託して自刃した、と伝えられている

宝篋印塔

十四萬廻向・十五萬廻向・十六萬廻向・十七萬廻向・十八萬廻向塔

早逝した光秀の妻凞子(ひろこ)の墓(細川ガラシャの母) 戒名:福月真祐大姉

山﨑の合戦後、明智(妻木)一族が坂本城を守るために多数の兵士を引き連れ、琵琶湖畔坂本城を守り続けたが、秀吉の軍勢と戦い、ついに坂本城炎上と共に一門は自害したと言われている

月さびよ 明智が妻の 咄せむ・・・芭蕉

人生を旅と心得、旅を求めてやまなかった芭蕉は軍旅に敗死した武将への限りない哀惜を詠んでいる

その中で唯一女性に対する句が異彩を放っている

明智が妻の句は「奥の細道」の旅の途次、越前丸岡に足を止めた折、耳にしたことを後、伊勢の門弟・山田又玄の妻に贈ったものである

まさにこの一句に人生観があらわれていると云えよう

逆臣と言われたにも関わらず封建体制下の江戸時代にあって、光秀の妻を顕彰したのはまさに自由人芭蕉であった

妻木一族供養のために岐阜県土岐市の小島一晃氏が供養塔を寄進されている

明智十兵衛尉殿日向守光秀、濃洲明智三郎四郎、濃洲明智藤右衛門、濃洲妻木、明智殿幕下、宗普法師、盛巌禅定門ら

妻木城十二代城主妻木藤右衛門廣忠は、天正10年(1582)6月14日、坂本城落城後殉死した一族を西教寺に埋葬し供養した後、6月18日凞子(廣忠の娘)墓前で自刃したと伝えられている

 

)の墓