死力を尽くした湖上の激闘「堅田城」
8月25日11:40分、三石岳(さんごくだけ)三等三角点676m
元亀元年9月、浅井・朝倉連合軍は湖西を南下し坂本に駐留する。延暦寺もこの連合軍に呼応し、信長軍と対峙していた
檜に取り付けられた看板
両者の膠着状態が続く中、堅田の一部土豪が信長に与し、堅田城に籠っており、そこへ信長の武将である坂井政尚等も加わっていた
標点と足に感謝を込めて
11月、連合軍は堅田城に押し寄せ、坂井はじめ主だった武将が討たれる。信長軍の生存者はわずか4名
比叡山の5峰の一つ三石岳
大比叡848mが主峰で、四明岳839m、釈迦ケ岳750m、水井山794m、三石岳676mを総称して比叡山と呼ぶ
その後、連合軍と信長の和睦が成立している
南北約12kmに及ぶ山体の東西両側は急傾斜の断層崖となっているが、山頂部は傾斜は緩やかです
また元亀2年の比叡山焼き討ち後、滋賀郡は織田信長の支配するところとなるが、最後まで反信長として抵抗する勢力も残っていた
残念ですが人工林に遮られており眺望はありません
彼らが拠点としたのが今堅田城で、元亀4年には、明智光秀らの活躍で落城している
樹林帯を抜け出すと青空に白い夏雲が覗きました
江戸時代以降は幕府の直轄領として栄えた
滋賀医科大学霊安墓地
俱會一處:極楽浄土に往生して人々と一ケ所に集う
浄土教の根本聖典である浄土三部経の一つである阿弥陀経に典拠がある
色々な種類の高木が見られました











