孫子に学ぶ「勝者」の条件

「曲淵宗立斎言上書」という古記録によれば、信玄は商人20人ほどを間者にして諸国に派遣し、また外科医や博労も間者に用い、一国に二人ずつ常時滞在しているようにとりはからった

8月4日10:46分、北山トレイル向山ルートを山幸橋へ向かう

孫子は、優れた諜報活動は、外交戦の場合にも必要不可欠である。諜報活動によって相手の内情がよく分かっていれば、より有利な条件で同盟を結んだり、同盟をした狙いを最大限に生かすことが可能になる

山幸橋までは下りが続きます

信玄は上洛して京に旗を立てる夢を果たすために、乗り越えなければならない2つの難関があった

東北部クリーンセンター分岐

1つは、留守にする領国の守りをどうするかであり、もう一つは京までの前途に立ちはだかる敵勢力をいかにして撃破すべきか

足元に珍しいキノコ

留守中に領国を脅かしそうな強敵は、小田原の北条氏と上杉謙信の二人

馬の背のような尾根道

北条氏とは元亀2年(1571)同盟を結んでおり、また北条氏は関八州の制覇を当面の急務としていたから、心配はなかった

どこも彼処も台風の惨禍が残る

問題は上杉謙信であった。永年のライバルであり、しかも当時の謙信は信長と結んでいたから、軍を発せば、その背後をついて甲信に乱入してくることは目に見えていた

散策道を塞いでいる倒木は分伐されている

信長包囲作戦

そこで信玄が打った手は、越中・加賀の一向一揆を使嗾(そう)して謙信の領内へ攻め入らせることであった

自然淘汰

信玄の夫人の妹が本願寺門主顕如光佐の夫人という関係にあったので、信玄は以前から本願寺と親しく、その縁で越中・加賀の一向一揆ともつながりがあったのである

命の循環が行われている

一向一揆の方も謙信とは仲が悪かったので、信玄のこの作戦は見事成功し、謙信は一向一揆ととの戦いで身動きが取れなくなる

鞍馬川が賀茂川へ流れ込む

洛北発電所

あまりの暑さに蛙になりました。熱した体を冷やしました。爽快(#^^#)

色文字は、昭和58年7月号「プレジデント」より

to be continued