世間の繁き仮廬に住み住みて、至らぬ国のたづき知らずも・・・巻16-3850作者不詳

世の中という煩わしいことが多い仮の住みかに住み続け、死後に行きつく浄土の様子はわからない

先輩が伊賀の治田地区の出身と聞いていたが何か所縁があるかもです

岡地区民家の玄関に取り付けられている短冊、どんな意味があるのでしょうね

形代(かたしろ)でしょうか?

※形代:神霊が取りつきやすいよう形を整えたもの

形代へ息吹きかける子の病・・・奈良新聞大和柳壇

岡本寺子安観音、傍の百日紅が満開です

川原寺跡の東南の隅にある祠

飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、平城京遷都後も明日香の地に残った川原寺跡(弘福寺)

日本書紀に、天武2年3月の条に川原寺で経を写すという記事があることや、伽藍配置や瓦の紋様が天智天皇に関する大津宮の南滋賀廃寺などと類似することから、斉明天皇の冥福を祈り、息子の天智天皇が建立したのが創建と考えられている

川原寺方式伽藍で、現在中門跡などが整備されている

弘福寺(ぐふくじ)本堂には十一面観音を本尊に重要文化財の持国天が配され、境内では瑠璃の礎石を見ることができる

かって壮大な伽藍を誇っていた名残を留める

中世以降衰微し廃寺となった。現在は跡地にある真言宗豊山派の弘福寺が法燈を継承している

大師堂

方2町を超える地に中金堂を中心として、東南に塔、西南に西金堂があり、中門、回廊さらに北に講堂、三面僧房などが整然と配置されたさまは、まさに白鳳時代の官の大寺としての盛観をしのばせてくれます

昭和32年・33年にわたる奈良国立文化財研究所の発掘調査で旧伽藍が確認されました

この調査で寺の創建以前に暗渠を設けた大きな工事が行われたことが分かりましたが、これこそ川原宮の遺構でありましょう

9世紀になって当寺は真言宗と結ばれ、弘法大師が朝廷より賜り、今日まで「弘法大師ゆかりの寺」として、その伝統たえることなく続いています

創建の伽藍は建久2年(1191)に罹災して以後は中央部の諸堂のみ復興しましたが、これも16世紀ごろに再び罹災して、今は当建物(弘福寺)が残るのみであります