キンポウゲが咲き乱れる坂道を登る

南志見城は1555-58年頃、南志見中務大輔(南志見地頭)が居城であった

六体仏

南志見中務大輔は、鎌倉御家人・長谷部信連を祖とする

稜線を南へ進むとやがて墓地に出る

室町期には足利将軍家の奉行衆として長南志見孫太郎、長南志見五朗左衛門の名が見られる

※長氏は畠山の重臣で信長との結びつきを強めた

古い墓石が多い

1571年には畠山氏の能登外浦の代官・南志見光連(中務大輔・畠山義慶の家臣)の名がある。※

土葬の名残を感じさせる墓石

子供の頃、夜に兄と海でガンチ(蟹)取りをしていて、城山を見上げたら火の玉が飛んでいたことを思い出した

1577年南志見城は上杉謙信の能登攻めにより落城し、没落する

風化して変形してしまった墓石

その後、上杉侵攻の際に南志見氏に叛いて上杉に通じた被官・井口藤弥丞(名舟城主=野田)が、南志見城を改修し居城したと伝えられています

住吉神社25世の標記

南志見城の東に照光寺、西に長栄寺があり、城との結びつきがあったものと考えられる

稜線にはイノシシ除けの電線が通っている

南志見城は長氏の庶流・長南志見氏の要害であった

山頂標点

東西150m、南北600m、比高80m

見張り台があったのではないかと想像が膨らむ

南北に細長い稜線を加工した連郭式縄張りの城館で、頂部に主郭を構えていた

腰をおろして暫く佇んだ

歴代城主は、南志見長氏⇒井口氏

兄は周囲を探索し始めた

南志見城は畠山氏の能登外海の要害であった

参考:越登賀三州志より

1577年、上杉が第1次能登攻めで、畠山の支城を攻める

1577年、上杉が名舟を攻める

1578年、第2次能登攻めで七尾城落城する(遊佐続光の寝返り)

1580年、畠山旧臣が上杉を追放し、織田に城を明け渡す

1581年、前田利家が入城する

名舟城主・井口氏が上杉に通じていたなら、名舟を攻めることはない