明治天皇に殉じた陸軍大将夫妻
天皇の棺が皇居から出棺する合図の号砲が鳴るとほぼ同時に赤坂の自宅部屋で自刃した
うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり
神あかりあかりましぬる大君のみあとはるかにをろかみまつる(希典辞世)
出てましてかへります日のなくときくけふの御幸に逢ふそかなしき(靜子辞世)
赤坂の屋敷にて皇居に向かひ、天皇の御霊への忠義の証なりと自らの命を捧げた
夏目漱石は「其の時、私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わった氣がしました。尤も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残ってゐるのは畢竟時勢遅れだと云ふ感じが烈しく私の胸を打ちました」と
西田幾多郎も「乃木さんの死に就いて、かれこれ理屈を言ふ人があるが、此の間何等の理屈を入れるべき余地がない。近来明治天皇の崩御と将軍の自害ほど感動を与えたものはない」と、語りき
黒岩涙香は「国民は彼を神として祭るべきか然り、彼を神として祭らんば、復誰を祭らんや・・・。實に乃木将軍は神にて在(お)はしき」と記し、お二人の赤誠に感銘受け多かるに歎き惜しみてその死をば悼むなり
乃木大将は、吉田松陰自筆なる「士規七則」と山鹿素行「中朝事實」を肌身離さずして戦場に赴いたという
乃木大将は死に逝く3日前、自ら書き写し朱を入れたる「中朝事實」を廸宮殿下(後の昭和天皇)に御進講の上献上(たてまつ)れり
国のため力のかぎりつくさなむ身の行く末は神のまにまに
乃木神社創建の村野山人翁は薩摩の人にて電鉄経営に参画し、衆議院議員を務めるなど関西の政財界を代表する人物
乃木夫妻の1周忌にあたり、自らの全財産を投じ伏見桃山陵の傍らに、乃木希典大将と靜子夫人を祀り、御遺徳を仰ぎ尊び其の赤き心永く世に傳へむとの大き志なりき。大正5年9月建立なる
乃木大将のご先祖は宇多天皇第八皇子敦實親王の後裔・佐々木四郎高綱公。宇治川の合戦で義経軍を勝利に導き手柄を立てた方です。父・十郎希次は江戸麻布毛利藩で槍術の指南番をする禄高150石の武士でしたが、幕末藩政改革案を上申するが上級藩士の機嫌を損ね減禄二分の一となり、長府に帰り閉門蟄居となり、足軽の家を借りて家族7人が住んだ
幼名を無人と云い、気弱温順な性格でした。萩の乱、西南の役の鎮定に活躍され、日清戦争では旅団長となり、戦後は台湾総督を経て第三軍司令官として旅順攻略をなし後、軍事参議官宮内省御用掛、学習院院長などを歴任した











