後瀬山城跡:国指定史跡
今から500年前、若狭を治める武田氏は、当時全国でも有数の国際都市となっていた小浜を統治するために、港の後背に聳える後瀬山に城を築きました
標高168mの後瀬山
城は、丹後一色氏との交戦に備え、さまざまな防御施設を設けています
山頂には本丸跡が遺る
山上近くには御殿とも呼べる庭風の設備を作り、茶会や歌会などを行ったようで、数多くの茶器などが出土しています
永禄11年(1568)、武田義統が急死すると、後を継いだのは若干6歳の元明であった
武芸ともに秀でた若狭武田氏ならではの城と言えます
若い元明に武田家を統一することは不可能であり、それに付け込んで小浜に侵攻してきた朝倉軍に、元明は拉致されてしまう
若狭武田氏が滅亡後も、豊臣方の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊などの側近が代々住まいしました
元明は以後、朝倉氏が滅びるまで一乗谷で幽閉生活を送る
秀吉にとっても港湾都市小浜は重要な場所だったのです
天正10年(1582)、光秀の本能寺の変で信長が横死すると、光秀からの加担要請に乗り、明智軍とともに佐和山城を攻め落城させる
小浜藩主酒井家の菩提寺「空印寺」
関ケ原合戦後は、京極高次が海を望む小浜城が完成するまでここに住まいしました
元明はあわよくば旧領を回復させたいという希望を持っていたようである
高次の死後は、この居館を利用して菩提寺の泰雲寺が創建されます
しかし、秀吉によって明智光秀は滅び、元明は近江で丹羽長秀に捕らえられ自害する
八百比丘尼入定洞
また、京極氏国替え後に入部する徳川家光側近で大老の酒井忠勝は、父の菩提を弔うために建康寺を創建します
元明、享年21歳、名門若狭武田家は滅亡した
人魚の肉を食べ、若いまま800年も生きたと伝わる洞穴
忠勝の死後は、その菩提寺として大規模な伽藍が作られ空印寺となり現在に引き継がれています
その後、丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊と受け継がれ、関ケ原以降は京極高次が入部すると新たに小浜城が築城され、後瀬山城は廃城となるなった
空印寺薬医門
発掘調査の結果、後瀬山を背後に持ち、一辺約100mで周囲に堀を巡らせた大規模な方形居館の跡が確認されています
空印寺本堂










