興福寺「北円堂」
小説「北円堂の秘密」(大町阿礼:作)によると、創建者である藤原不比等の墓が地下に埋葬されていると推測。特別御開帳の時以外は通常拝観はできません
享保2年の大火で焼失し、寛政元年に再建された南円堂
和服姿の女性2人は外国の方でした
300年ぶり「天平の姿」がよみがえった
古代復元建築としては空前絶後
中金堂は兵火などで7回焼失。江戸時代の享保2年(1717)年に焼けた後は仮堂しか建てられなかった
再建された中金堂は、幅約37m、奥行き約23m、高さ21m
堂内には金箔を施した本尊・釈迦如来坐像が安置されている
300年間仮講堂に安置されたいましたが、今回の落慶に合わせて金箔を貼り直し、本尊として還座しました
10月7日に落慶法要が営まれた。五色の縷(る)を引き、屋根を飾る金色の鴟尾を除幕
このほか、薬王・薬上菩薩像が脇侍として安置され、須弥壇の四方は、旧南円堂所在の四天王像がかためます
雅楽の調べが流れ、再建に向けて結縁者が記した「散華写経」が中金堂と五重塔から舞った
中金堂内陣には興福寺の教義である法相の祖師を描いた「法相柱」には、インドの無著菩薩・世親菩薩・護法論師・戒賢論師が、中国の玄奘三蔵・慈恩大師・淄州大師・濮陽大師、日本の玄昉僧正・善珠僧正・別當行賀・真興上綱・権別當蔵俊・解脱上人からなる14人の祖師が描かれています
法要は5日間行われ、延暦寺の森川宏映天台座主らが参列した
多川貫主は『7度の焼失を経ての8度目の再建で、文字通り七転び八起き。今後も回廊の再建など、天平文化空間の再構成の実現に尽くしたい』と述べられています
資材は国内で調達するのは難しく、巨大な柱はアフリカ産ケヤキ材を使用している
かって諸院坊舎含めて十一万七千四百坪余りを有した境内地は、明治4年の「社寺領上地令」によって伽藍の堂宇までもが国に摂取されてしまい、六千八百十二坪ほどになってしまいました 
明治41年には教務省から「興福寺の名号を立てることは聞きがたし、一山すべて廃寺処分とし、但し中心の伽藍はそのまま置き、これらの堂塔を西大寺と唐招提寺に管理させて、その他の土地はすべて大蔵省によって処分」との旨が通告されています
伽藍の中心堂塔が残されたことで命脈は保たれましたが、受難を乗り越え再建に漕ぎつけました。関係各位のご尽力に敬意を表します<m(__)m>
奈良新聞参考












