「望」・・・京都在住Y・N画伯
もう少し山歩きを、もう少しお絵描きを
もう少し行動力を、後は・・・で 生 かな~
来年は今年以上に!
(今年度18回開催中、新年登山、大原三山、大暑山と3回リーダーを務めて下さいました。一回り上の辰年、先輩が目標です)
11月24日11:41分、四季百彩に包まれた『地上の天国』
神仏霊場141番札所・近江西国第16番札所「釈迦山・百済寺」を訪ねました
近江最古級の古刹で、1400年の法灯を守り続けています
推古天皇の時代に、聖徳太子の御願により百済人のために創建された
御堂は百済国の梵閣「龍雲寺」を模して建てられ、開闢に当たっては高句麗の僧・恵慈を咒願とし、その後の供養には、百済の僧を任ぜられた
その後、平安京に都が奠められ、比叡山に天台宗が開創されると、当山も天台の寺院となり、「湖東の小叡山」と称されるようになった
平安末期から鎌倉・室町には塔頭三百余坊とあり荘厳な大寺院であった(明応勧進帳序文より)
元亀元年、佐々木義治等が、織田信長に抗し、森備前の守等、義治を奉じ、鯰江城に入るや、当山衆徒は寺内にその妻子を預かり、兵糧を送り援護したため、これを知った信長の兵火により一山悉く焼失した
僅かに御本尊等数体の主な仏像と、重要な経巻類を奥の院に西ケ峰に遷座守護し辛うじて難を免れた
まことに有為転変の世の姿をそのままに、荒涼人影を見ぬこと10年、信長も亦、本能寺の煙と化した
天正12年堀秀政により仮本堂が建てられ、慶長7年に至って146石5斗の地を寺領として免除され、一山の坊舎もその数を増し、復興に向かった
樹齢千年の菩提樹
信長の焼き討ちで幹は焼損しましたが、根が生き残り蘇った
山号にちなんで古来より「仏陀の聖樹」として崇められています
寛永年間には天海大僧正の高弟、亮算入寺し伽藍の再興を計り勅許を仰ぎ、寛永14年には明正天皇綸旨を下し給い、改建を勅許された
住僧等は大いに喜び、諸国に勧進し、井伊直孝朝臣御取持を以って、土井利勝・酒井忠勝・栄勝院局・春日局の喜捨を得、尚、甲良豊後の守宗広より金子500両の寄進あり、慶安3年、本堂・仁王門・山門等が竣工した。これが現在の建築物である
百済寺一山、本坊の喜見院(きけんいん)の庭園は、別称『天下遠望の名園』と呼ばれ、近江の歴史舞台を一望することができる
喜見院は千手坊と称していたが、天海大僧正の高弟・亮算が入寺するや喜見院と改めた
池泉式庭園の高台「遠望台」からは湖東の平野が眼下に展開し、西方55kmには比叡山が、さらに西方880km先には渡来人の母国「百済国」を偲ぶことができる















