壮大‟日本一”の山城
城下から本丸まで比高差446m
敵を阻む最強の要塞
修理の届け出不要、徳川家光が優遇
南北朝時代に大和南部の覇権を有していた越智邦澄が築城を始めた伝えられている
戦国時代(天正12年)、筒井順慶が郡山城の詰城として改修に取り掛かるが、天正13年、伊賀へ国替えになると、羽柴秀長が家臣の本多利久を城主とし、天正17年に大規模な改修を命じた
この改修により、多聞櫓で繋がれた3重の大天守や小天守が築かれた
二の丸には大名屋敷や17基の3重櫓が城内に立ち並ぶ、壮大な近世城郭に変貌した
本多氏が3代で途絶えた後、寛永17年(1640)に徳川家譜代の家臣・植村家政が藩主となる
植村氏は「城山由来覚書」を徳川家光より受け、幕府に届けなくても勝手に城の修理ができるほど、優遇を受けた
その後、明治維新まで約230年間、植村氏は14代にわたって城主を務めた
本丸は、高さ約8m聳え立つ天守台の石垣が囲む
天守台には約3mの穴藏(入口)が設けられている
本丸の高さは、東西約75m、南北約60mで、3重の天守と小天守に3基の櫓が多聞櫓で連結する、「連立式天守」と呼ばれる構造である
幕末の文久3年(1863)、1000人余りの尊王攘夷派の天誅組が、高取城を攻撃、迎え撃つ高取藩の兵力は200人ほどであったが、天誅組は敗退した。高取城が日本最強の城であることを証明する出来事であった
これまであまり意に留めることがなかった高取城、行って見て最強の城を実感しました
※奈良新聞「やまと城めぐり」参考











