般若心経を生きる・・・青木擴憲①

「お陰様」で築いた紳士服チェーン200余

経を読み続けた母の姿を見て育ち、後に「人生の師」と出会い、自分のこだわりを捨てた

梓川と霞沢岳2646m

心に焼きついている母の読経

これまでの半世紀を振り返ってみると、私は何度か大きな危機に見舞われている

9月1日、ススキがそよいでいました

その危機は大体7年周期で訪れたわけだが、そのたびに私は、何とかそれらを克服し、今日に至ることができた

上高地温泉ホテル、外来入浴可とあります

今になってみれば、当時の悩みも苦しみもすべて、感慨深い思い出となって私の中に生き続けているが、そのときいつも私の心の支えになってくれたのが、『般若心経』の教えであったとつくづく思う

霞沢岳の岩稜

私が、『般若心経』を身近なものと感じるようになったのは、いわば自然の成り行きだった

川上は明神岳

というのも、物心がつく頃から私は、母親が何かにつけ『般若心経』を唱える姿をこの目で見て育ったからである

ノコンギク

私の母はいかなる逆境にあっても明るさを失わない人で、その母の救いとなったのが信仰であり、『般若心経』だったと思う

梓川に架かる穂高橋

わが家の宗旨は浄土真宗ではあったが、母があげるお経はいつも『般若心経』であった

西穂高岳登山道、山頂まで6.1km

ご承知のように『般若心経』は、内容に深さもさることながら、最も短いお経である

7月2日14:15分頃、焼岳登山口付近でツキノワグマ1頭が目撃されています、とありました

日々の母の唱えるそのお経を耳にするうち、幼い私も自然に覚えてしまったというわけである

大山大明神

つまり私は、意識もせずに、子供の頃から『般若心経』に親しむ環境にあった

カラマツ巨樹

また私にとって、『般若心経』と母とは常に不可分なものとして生き続けているのである

根元に小さな祠が祀られています

私の父は戦前、かなり繁栄した米穀商であったから、私の小学生時代までは何不自由ない暮らしだった

田代橋の下を流れる水紋

しかし、戦争がそれを一変させた。戦後、父は馴れない質屋に転業したが商売はうまくいかなかった

上高地の雰囲気満点の森

青文字は、1993年11月号「プレジデント」より

to be continued