般若心経を生きる・・・青山俊薫①

女人「般若心経」わが母、わが心

五歳で仏門に入り、15歳で出家した尼僧が語る、それ故の「仏の教え」

俊薫さんが二番目に覚えたお経が「般若心経」であったという。「母が、幼い私が書いたカタカナの般若心経を一生宝物のように持っていたといいます。自ら飼い糸を紡ぎ、娘のために衣を織り続ける、そんな母でした」。還暦を迎えた俊薫さんが語る母への思い、そして「般若心経」の教え

14:03分、北股川河岸に降りる

寝ている間も、ひとりでに呼吸ができる。食欲も授かりもの、眠りも授かりもの、この「授かり」の背景にあるものが、「般若心経」でいうところの「色即是空 空即是色」の「空」ではないでしょうか

大きな岩がごろごろしている

「般若心経」には、「空」あるいは「無」という言葉が何度も何度も出てきます。「空」とか「無」には二つの意味があると思います

水嵩があれば渡れないでしょう

例えば、「般若心経」の中の「無限耳鼻舌身意 無色聲香味觸法」は、ふつうに「限耳鼻舌身意も無く、色聲香味觸法も無く」と訓読し、「無」は否定的に使われています。これが第一の意味です

14:13分、垢離取場に到着

ですから、これは「眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身体もなく、心もない。形もなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、法もない」という意味になります

この世のものとは思えないくらいとてもきれいな水です

この眼、耳、鼻、舌、身、意が「色即是空 空即是色」の「色」にあたり、これは、姿かたちを持つ限定されたものという意味になるのです

金峰山寺の在家出家されている方にお聞きしました

「単に綺麗ということだけではありません。聖地中の聖地であり、靈が宿っているからです・・・と」

例えば人間という一つの限定された姿形を持つと、「いつでも、どこでも」存在するわけにはいきません。時間的にも空間的にも限られた存在です

神聖な行場であり、水遊びをする場所ではありません!

つまり姿かたちを持ってしまったら、空間的には一つのところにしか存在できないし、時間的には生老病死で、死んでいくしかない存在です

第二の意味は、例えば余語翠巌老師の読み方を拝借するなら、「無の限耳鼻舌身意あり 無の色聲香味觸法あり」という読み方が語っている心です

行を行うには作法があります

つまり「無」や「空」は「限定することのできないもの」という意味があるのです

修験道の先達の方の指導をいただくことが必要といわれます

時間的には「いつでも」です。空間的には「どこでも」です。要するに、天地いっぱいに永遠に存在する、ということです

心身に取り付いた垢を取る場所なのですから

素人さんは安易に真似しないでください!とのことです!!

したがって「無」や「空」は天地いっぱいの永遠の生命の働きを表現しているとも受け取ることができる

六根清浄、ひたすら般若心経を諷誦する

青文字は、1993年11月号「プレジデント」より

to be continued